CR7愛好は罪か?

「正しい」GOATの神話
どんなスポーツでも、唯一の「正解」なGOATは存在しない。バスケもテニスもサッカーも同様だ。 私はNBAプレーオフ予測やチャンピオンズリーグ勝率モデルを数年かけて構築してきたが、ファンとしての情熱に関しては、数字では計れない。 私は統計的な議論(好き)だけでなく、「感情的な帰属」について話している。メッシの8冠と同時に、ロナウドの5回UEFAチャンピオンズリーグ優勝を愛する理由——それは単なる客観的優劣ではなく、彼のスタイルが自分に響くからだ。
好きな選手が『間違っている』わけではない
先週、フーパーで『ロナウド好きは地味だ』というコメントを見た。彼の粘り強さや終盤劇的活躍を理解していないなら、そう言うのだという。 これは私にとって衝撃だった。 クラシック音楽ファンがヒップホップも好きだと『不正解』とは言わないだろう? ファンアイデンティティは二元的ではない。ジョーダンの6冠を敬愛しつつも、「98年の乔丹」が登場した瞬間に心が震える——その年彼は優勝しなかったのに。 同じ理屈だ。
オンラインでのファン格差
ネット上には見知らぬ階級制度がある:『確立された伝説』(メッシ/ジョーダン)ファンだけがエリートと見なされ、『争议的選手』(ロナウド/ナダル)ファンは偏見や浅ましさとされる。 だが本当のこと——アルゴリズムでは測れないのは—— *他人からの承認を得なくても、あなたのファンライフには価値がある*ということだ。 2010年以降12万試合以上のプレミアリーグデータ分析をしてきた私が、それでも2018年のロナウドによるボックス外シュートで胸が熱くなるのはなぜか? それは勝利ではなく、「意思」そのものが動きに書かれているからだ。 もちろん当時ユベントスでは優勝できなかった。でもその美しさは消えない。 それどころか私は数字を超えたもの——試合裏にある人間ドラマに惹かれているのだ。
社会性を求めすぎないで
誰もがコミュニティを求めたいと思う。しかし中には「共感」ではなく「同調」を求めてしまう人もいる。 あなたがあなた自身ではなく、「みんなが思うこと」に基づいてスポーツを感じているなら——それは本物ではない。 フーパーでもESPNでもなくとも、あなた自身にとって意味のある選手を尊敬していいのだ。主流意見と一致しなくても構わない。自分が感じる価値を見つけられる自由があるはずだ。多様性こそ美しいし、群れの中での反逆心こそ真実であり——歴史がどう言っても、自分の英雄を選ぶ権利はある。